2024.4.23

開催レポート:フィールドスタディ(東日本大震災・福島原発事故被災地)

レポート

▶︎レポーター

高崎 大輔 人間環境学部同窓会事務局 第5期生(2006年度卒業)

東日本大震災・東京電力福島原子力事故被災地でのフィールドスタディ「震災から復興を通じてエネルギー供給と地域づくりを考える」をコーディネイト

8月24日(木)から27日(日)にかけ、東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故による被災地・福島県浜通り地方でのフィールドスタディのコーディネーターを務めました。東日本大震災・福島第一原子力発電所事故による被災地を巡り、各所各施設の概要、現場での状況や学生からの声などについてレポートします。

  • 担当:松本倫明先生・渡邊誠先生
  • 学生:15名

  • <第1日目(8月24日木曜)>

    テーマ:常磐炭鉱と湯本温泉郷の歴史を知る。


    ●常磐湯本温泉株式会社
    常磐湯本温泉株式会社は、JR常磐線湯本駅近くの小高い丘に本社とプラントを構え、プラントでは、約58度の源泉を深さ約800〜2,000メートルの亘長をかつての炭鉱坑道を利用し汲み上げ、毎分5.5立方メートルの温泉を湯本駅前の旅館や温泉施設他およびスパリゾート・ハワイアンズへを供給し、揚湯・送湯設備の維持管理から小売までを一貫して担う。

    常磐湯本温泉株式会社の広報担当者から施設概要や事業の歴史などについてうかがう。
    施設案内で、“一つの炭礦(やま)は一つの家族「一山一家」”という言葉があった。これは炭鉱で働く人はすべて家族であり、常に助け合いながら生活をし、強い連帯意識を持っていたことを意味する。
    そして、1960年頃まで常磐炭鉱が栄えた頃の従業員の暮らしや、そして世の中のエネルギー源が石炭から石油へ転換され、炭鉱が閉山し会社が解散に至ったこと、常磐ハワイアンセンターを新規事業として立ち上げた歴史などについて説明を受けた。
    最近では、コロナ渦により温泉施設の来客が減少した。しかしその場合でも常に定量を供給しなければならない。需要に応じ供給量を減少または止めた場合、配管に空気が入り、供給再開時に配管に強い圧力がかかり、配管が破損するため、需要に関係なく常に一定の温泉を供給しなければならない。

    <学生からの声>
  • 需要に合わせて供給量を調整できないのがもったいない。
  • 温泉以外に利用することはできないのか。例えば地熱発電に利用するなど。

  • 説明員からの回答:温泉以外の利用については、行政や学識者、地域を交え、検討を始めている。地熱発電を行うには、温度が低く適さない。地中熱利用ヒートポンプは可能性がある。

    足湯で作戦会議 足湯で作戦会議

    ●湯本駅前の温泉街
    湯本駅前には温泉旅館が軒を連ねる。この湯本地区は、かつては炭鉱の町として栄えた。1960年代後半からの石炭から石油への転換により炭鉱は閉鎖し、町は衰退した。
    かつて社員旅行など団体客により賑わった温泉旅館街を散策。

    旅行のスタイルが「団体」から「個人」へと変化する中で、2011年3月11日の東日本大震災、そしてその一か月後の4月11日のいわき市内陸部を震源とする直下型地震により建物躯体および建物内の配管に強い衝撃を受け、この地域の温泉旅館はしばらくの間、営業ができない状態に陥った。その後、修繕を進めながら、旅館によって異なるが、原子力被災者、作業員、復興ボランティア等の受入れをおこない、再建をしてきた。そしてようやく震災から約10年以上経過し、通常に営業ができるようになった。しかしその矢先にコロナによる打撃を受けた。

    ~夕食後のふりかえり~
    宿舎「古滝屋」の代表が施設内を改装して肝いりで制作された「原子力考証館」で振り返りをおこなう。施設には、日頃の活動で撮影した写真、思い出の写真、資料、新聞記事、被災者の遺品等が展示されている。

    夕食後、原子力考証館でお勉強

    <第2日目(8月25日金曜)>

    テーマ:電源立地とその地域の被災状況を知る。

    この日は、私の学生時代同期の菅野綾(旧姓西山)さんに同行をいただき、現地ガイドをお願いした。彼女は、福島県富岡町出身で、現在はいわき市に在住。

    ●株式会社メイコー福島工場
    メイコー福島工場は、広野工業団地に立地し、プリント基盤の設計・製造を手がける。
    その工場長から震災当時から現在までの道のりについてうかがう。工場長は、震災前は楢葉町に住んでいたが、震災後、家族は神奈川県へ避難し、一時期は家族が離散してしまった。現在もいわき市に住まれており、いまだ楢葉町の自宅へ帰還できない状況。これは例外ではなく、避難先や移転先のいわき市から通勤している従業員は少なくない。
    一方で復興、脱炭素社会創造、クリーンなイメージづくりへの取組として敷地内にメガソーラ発電所(約3メガワット)を設置した。ここは元々、震災前に第二工場の建設予定地であったが、震災および被災により建設計画が廃案となり、その代替として、メガソーラ建設に至った。
    現在、固定買取価格買取制度(FIT)により、東北電力ネットワーク(東北エリアの一般送配電事業会社)へ20年間にわたり売電をしている。買取終了後において、売電方式から自らが使用(自家消費)できるよう切り替えることを検討している。工場長の夢は、100%再生可能エネルギーで作られた製品(「RE100」)として売り出し、その付加価値を世界に発信することだ。

    工場長から震災直後の状況やメガソーラ建設・運用について説明を受ける

    ●原子力立地地域の富岡町周辺
    富岡町は、福島第二原子力発電所が立地し、第一原子力発電所からわずか10km以内に位置する。震災直後は、「警戒区域」に指定され、全町民が避難。その後、「帰還困難区域」と名称が変わり、除染の推進や復興計画策定等により、2016年3月31日に町内の一部が避難指示解除となった。現在も避難指示が解除されない地域では、震災当時のまま朽ちた状態で建物が残る。一方避難指示が解除されても帰還することは難しく、家屋は解体され、空き地が見られる地域もある。
    今回、同行されている菅野さんの実家も同じ状況下にあり、現在は空き地になっている。実際に彼女の実家のあった場所へ向かい、彼女自身から説明を受けた。そこは、海岸まで歩いて数分の場所に位置し、海と緑に囲まれた自然豊かな地域であった。高台であったため、幸い津波の被害はなかったものの、震災直後から避難により数年にわたり住むことができず、現在の状態に至る。
    彼女から幼少期の頃やご家族のことなどについて語っていただき、生の声を聴き、事故の甚大さや重みを受け止めることができた。

    菅野さんから旧実家前で説明を受ける

    ●JR常磐線双葉駅前周辺
    双葉町は、一部地区を除き現在に至って避難指示が継続し、町民のほとんどが余儀なく避難や移転をされている。ただ、駅前から沿岸部の一部のエリアは、「特定復興再生拠点区域」に指定され、特に駅前ロータリーはTOKYO2020の聖火リレーが行われるため、復興の象徴として整備された。また、そのロータリー近くには双葉町役場の新庁舎が2023年4月にオープン。また駅西側(ロータリーの反対側)には、町営住宅が建設され、避難する住民の帰還やあらたな転入を促す動きがある。そのロータリーから数メートル先の駅前商店街を歩く。そこには震災当時のままの建物がいくつか残る。洗濯物を干したまま避難された住居、飲料自動販売機が当時まま残置されたガソリンスタンド、シャッターが折れ曲がったままの状態で、室内には机や書類が散乱する消防団の詰め所が残り、駅前ロータリーとは対照的であり、震災の実態を知った。

    双葉町駅前商店街を歩く。震災直後のまま建物が残る。

    ●震災遺構の浪江町立請戸小学校跡
    請戸小学校は、2016年4月1日に避難指示解除となった浪江町の沿岸部に位置し、近くには浪江漁港がある。現在は、災害遺構として建物や教室が当時まま保存された見学施設である。
    津波が襲来した15時37分を時計の針が指し、一階教室には、什器、黒板、ロッカー、蛍光灯、生徒の荷物が朽ちたまま残る。電気の配線がむき出しとなり、また、電力受電盤キャビネットがなぎ倒され、地震と津波の破壊力が計り知れないことがわかる。
    二階教室は、津波被害から免れたものの、黒板や机、掲示物などは当時のまま保存されている。そのなかで震災当時に被災された在学生が、十数年ぶりにこの小学校へ還り、当時をふりかえり、そして現状について綴った手紙が黒板一面に張り出されていた。
    学生たちは、この手紙を書いた被災者と同世代で、被災度合いはまったく異なるものの、オーバラップすることが多かったためか、多くの者がここで足を止めていた。
    他富岡町アーカイブミュージアム、東京電力廃炉資料館、原子力災害伝承館へ立ち寄り、当時のことや復興に向けた将来のことついて解説や展示から学んだ。

    震災当時のまま残された浪江町立請戸小学校。校内に津波の爪痕が残る。

    <学生からの声>
  • 双葉町商店街の先にJR常磐線と国道6号線を横断する跨線橋造成の工事があった。この跨線橋ができることにより、JR常磐線の踏切と国道6号線信号を待つことなく、山側から海側へ通行することができる。しかし、本当にこの工事は必要なのか、また、この工事によって復興や帰還が加速するのか、疑問を感じる。
  • 思った以上に復興が進んでいないことがわかった。学校、商店、病院、雇用など生活基盤が整っていない。除染活動に加え、企業誘致、大学誘致、研究施設誘致をおこない、他の自治体にない特色を創ってみるのはどうか。
  • 請戸小学校を災害遺構として残すことに反対意見はなかったのか。ここで被災を遭った当時の生徒、職員等、地元住民へのケアが必要。

  • 大熊町、双葉町では、今も未だ帰還困難エリアが残る。

    左上には、福島第一原子力発電所建屋の一部が見える。

    <第3日目(8月26日土曜)>

    テーマ 脱炭素社会と地域づくりについて考える。

    かつて福島第一・第二原子力発電所は、建設から運用において経済活動、雇用機会など地域の発展に貢献してきた。今回は、震災後に注目を浴びる再生可能エネルギー設備を見て、生産者と消費者との関係や地域社会への貢献について考える。また発電された電気の売電方法、制度などについて比較し評価をする。

    ●楢葉波倉メガソーラ発電所とその送電網等
    楢葉町は、廃炉の決まった東京電力福島第二原子力発電所(第二原子力)から約2キロ南に位置する。その楢葉町に復興の象徴として沿岸部約25.7haに農地転用で設置されたメガソーラ発電所(約14メガワット)を見学。楢葉町への避難指示が解除された翌年2017年4月より楢葉新電力合同会社が発電を開始。楢葉新電力合同会社は、発電事業と小売電気事業をおこなうため創られた特別目的会社(SPC)。
    ここで発電された電気は、第二原子力と首都圏を結ぶ送電線へ接続し、東京電力管内(東京エリア)へ送られる。制度上では「固定価格買取制度(=FIT)」により東京電力パワーグリッド(東京エリアの一般送配電事業会社)へ売電。一般的にFITの場合、売電用に作られた電気は、その地域の一般送配電事業会社である東北電力ネットワークへ売電する。しかしこの取組は特殊なケースで、東北電力管内(東北エリア)で発電された電気を東京電力管内(東京エリア)へ送電する。
    これまで第二原子力で発電した電気を東京エリアへ供給してきたが、震災後、廃炉が決定し、原子力に代わり太陽光発電によって作られた電気を送るプロジェクトになる。この取組は原子力に対する悪いイメージを払拭できる。そして、復興推進、カーボンニュートラル促進、地域雇用への貢献など複合的な効果が見込まれる。
    波倉発電所から送電線へ接続するまでの距離は約3kmになる。この間を約60本の電柱に22kV配電線を架線し、変電設備を介し66kV送電線へ接続する。これらの流通設備※は、事業主である楢葉新電力合同会社が担うことになる。脱炭素政策は、世界的に急務とされているが、再生可能エネルギーで発電した電気を電力会社の送電線へアクセスするには容易でないことがわかる。
    ※一般送配電事業者以外の者が敷設する送電線は、「自営線」と整理される。

    <学生からの質問や意見>
  • 福島と首都圏を結ぶ送電線を見て、電源立地と首都圏の関係についてあらためて意識するようになった。
  • 再エネ発電が普及することにより、これまでの原子力のイメージが払しょくできると思った。
  • なぜ、福島で作られた電気を福島で使用しないで、東京へ送るのか、疑問に感じる。
  • バーチャルな制度であることは理解できるが、本当に福島から首都圏へ電気は送り届けられているのか、送電ロスを考えると意味はあるのか、疑問を感じる。
  • かつて原子力政策が首都圏の経済発展を支え、電力の生産者と消費者として福島県と首都圏は関係を構築してきた。そしてこの災害により福島県と首都圏との電気による関係は途絶えたと思ったが、復興の象徴となる再生可能エネルギー発電により関係を継続することができ、さらにイメージもよくなった。
  • 福島県が首都圏のことを思い続けるのはなぜか。
  • メガソーラ建設により町の風景が変わった。震災前とのギャップが大きく、故郷と思えなくなり、帰還にブレーキがかかる。

  • メガソーラで作られた電気の売電の仕組みについて説明を受ける。

    ●葛尾創生電力(特定送配電事業による電力の地産地消モデル)
    葛尾村は、一部の地域を残し2016年に避難指示解除になる。。阿武隈山系の山々と葛尾川に囲まれた自然豊かな地域で、震災前は統計上で人口1,567人(477世帯)、現在帰還された住民は震災前の約2から3割に留まる。
    この地域へ復興の象徴としてメガソーラ(約1メガワット)を設置し、電力の地産地消モデルを創設。事業運営は、第三セクターの「葛尾創生電力株式会社」が担う。
    葛尾創生電力株式会社は、電気を作ること(「発電事業者」)から電気を送ること(一般送配電事業者」)、電気を販売すること(「小売電気事業者」)まで一貫して担う。具体的には、発電設備の太陽光パネル、電気を村内へ送るための電柱や6kV配電線などの建設から管理、これに加え、電気料金の請求から収納までの顧客管理をおこなう。これまで地域独占でおこなってきた電力会社の一貫体制を村内の一部地域に取り入れたモデルになる(=「特定送配電事業」)。
    メガソーラで作られた電気は、村役場、村営住宅、福祉センター、復興交流館(あぜりあ)、胡蝶蘭工場、せせらぎ荘(公営宿)、電気自動車の給電スタンドへ供給する。
    前述のとおり、売電用メガソーラで作られた電気は、すべて一般送配電事業者(ここでは東北電力ネットワーク)が所有する送電線や配電線を使い、東北電力ネットワークへ売電される。しかし、この葛尾モデルの場合、「特定送配電事業」制度の適用を受け、発電した電気を自らが所有する配電線を使い、特定の利用者へ送り届けることができる。

    (比較)
  • 標準:発電所で作られた電気は、一般送配電事業者を介し、不特定の利用者へ届けられる。
  • 葛尾モデル:発電所で作られた電気は、葛尾創生電力を介し、特定の利用者へ届けられる。

  • 主に晴れた日の昼間は、メガソーラで作られた電気を使用し、また福祉センター敷地内に設置した蓄電池へ電気を貯め、夕方以降は、貯めた電気を放電し使用する。まさに100%再生可能エネルギー発電により賄われ、まさに地産地消と言える。雨の日など発電量が少なく、自らの発電だけで賄えない場合、日本卸電力取引所(JEPX)から調達する。
    福島県には、福島第一・第二原子力発電所、現在においては広野火力発電所、相馬共同火力発電所、常磐共同火力発電所、猪苗代水力発電所など多くの発電所が立地している。これらは、前述のとおり首都圏へ供給することが目的であった。しかし、今回の葛尾モデルは、特定のエリアで電気を「作る」ことから「使う」ことまでを一貫にした顔の見える新しいプロジェクトである。復興の推進ととも地域経済の活性、脱炭素促進、レジリエンス強化など効果に期待できる。現在、住民の帰還と地域経済活性を促すため、工業団地への誘致をおこなっている。

    私たちが泊まった宿の周辺は、午後7時すぎになると静まりかえる。コンビニエンスストアは、すでに営業を終了していた。夕飯は、地域で唯一営業する食堂でとることにした。この食堂の閉店時間は午後6時30分であったため、食事を終えた後、店を出ると周辺は真っ黒であり、街路灯だけが輝いていた。

    <学生からの声>
  • 電柱や電線の建設やそのメンテナンスにかかる費用が大きく、事業採算が気になる。
  • 日本卸電力取引所のスポット市場価格が高騰しているので、太陽光発電で賄えないときの調達費用が気になる。
  • 日出から日没までだけの生活が理想的だが、現実は難しいと思う。
  • 住民の帰還や工場立地の促進をしているが、子供の教育、働く会社が限られるため、条件が難しいと思う。
  • 一般的に工業団地の近くには高速道路のインターチェンジがあるケースが多いが、ここから高速道路までのアクセスがよくないので、難しいかもしれない。
  • 工場誘致の条件として、時間帯によって割引や割増をする「電気料金プライシング」を導入してみてはどうか。
  • 電力会社が需要に対し、「増加」および「抑制」を指示するディマンドレスポンスの導入を検討するべき。
  • 発電時に操業を重点的におこない、日没時には終業する。働き方改革にも寄与する。

  • 胡蝶蘭工場を見学。胡蝶蘭栽培には、常に一定の温度管理が求められ、大量の電力と燃料が使われている。

    <第4日目 8月26日(日)>

    テーマ 津波被災地から防災対策と観光資源について考える。

    最終日は、再度いわき市内へ戻り、地震や津波に遭われた被災者から当時の様子とその後の生活や防災対策について伺う。

    ●いわき市小川町の被災者様宅と夏井川周辺
    いわき市小川町は、いわき市中心街から約20kmの内陸に位置し、夏井川のせせらぎが聞こえてくる自然豊かな地域である。
    平日はいわき市中心街で暮らし、会社員として勤務。週末は、野菜や米づくりなど農作業のため小川町ですごす住民Mさまを訪ね、震災当時の状況について話をうかがった。
    福島第一原子力発電所が水素爆発した後、いわき市中心街は、仮設住宅への被災者受入れにより衣食住を求める買い物客で交通渋滞が社会問題になった。また、駅前のスーパーや商店では買い置きや物流の影響等により品切れとなり、混乱した状態であった。一方で、駅前ホテルは建設関係の作業員が宿舎として利用し、周辺飲食店とともに賑わう。
    Mさまは日頃から中小企業の支援を業務としており、震災後は中小企業向けの賠償手続きの促進にかかわり、東京電力との仲介をされていた。彼は2011年9月23日にいわき明星大学の大講堂で開催された被災企業向けの賠償手続き説明会のことを鮮明に覚えている、と話す。賠償範囲が確立してしていない中、会場には数百の被災企業が集まり、具体的な被害状況を挙げ、賠償の可否を東京電力担当者へ質問をするが、まっとうな回答が得られないことに会場は紛糾し、説明会は中断し、集まった被災者は次々と会場を後にした。これだけの惨劇は、それ以降なかったと語られた。
    そして東日本大震災から約8年が経った2019年9月に二度に渡り台風がいわき市内を襲い、夏井川の氾濫によりこの地域一帶は床上浸水に見舞われ、Mさまの家屋および納屋も大きな被害に遭われた。家屋の外壁上部に浸水した痕跡が残り、当時の惨事を物語る。
    当時の被害を教訓に、エアコン室外機を地上から約2mの位置へ据え付けた。また、納屋にあったコメ保管庫と非常用発電機を2階へ据え付けられていた。これは、福島第一原子力発電所の非常用発電機が津波浸水によって機能しなかったことからの教訓が活かされた対策である。
    震災当時および台風による被害について生の声を聞くことができた。また被災から得た教訓からの対策について学ぶことができた。

    週末のスローライフの楽しみ方などついて話は盛り上がる。

    ●いわき市豊間地区での津波被災者様と豊間海岸
    いわき市豊間地区は、いわき市中心街から海岸方面へ約13kmに位置する沿岸エリア。2011年3月11日には高さ8.5mの津波に襲われ、400戸以上の家屋が流失し、85名の尊い命が犠牲となり市内でもっとも被害の大きかった地域である。
    現在、沿岸部の防潮堤造成や防災緑地が整備され、また住宅地の区画整理や高台移転がおこなわれ、あらたなまちづくりと生活が定着しつつある。
    この地域で災害語り部ボランティアをつとめるYさまから当時の状況と地域の防災対策等についてうかがった。
    当時YYさまは海岸より数mの自宅で同居する祖母と津波被害に遭う。震災直後からカメラを構え、押し寄せる津波の撮影を命がけでおこなったことをつい最近のできごとであったかのように鮮明に細部まで語られた。家屋は破壊されてしまったが、幸い2人とも一命を取り留めた。
    マイクロバスへ乗り込み、沿岸地域から高台方面へ移動しながら、震災前まで海岸線であったところに新たに道路が造成され、また橋の付け替えがおこなわれるなど区画整理によって整備された土地へ移り住むが人が増えたことなどの紹介があった。
    震災後の整備の一環として高台に作られた豊間公園へ移動。屋根付の広場を備え、スポーツやレクリエーション、催事など地域の交流拠点となる公園に位置付けられている。一見普通の公園に見えるが、いくつかの防災機能が備わっていることについて紹介を受ける。

  • 地面下に備え付けられた非常用簡易トイレ
  • 雨風をしのぐことができるテント付広場
  • 着替えの目隠しとなる開閉式支柱
  • 非常用発電機、非常用コンセント
  • 自立式ソーラー発電付街路灯

  • この被災から得られた教訓を活かし構築された防災拠点であり、万一に備え、沿岸部からこの公園まで避難訓練を地域の取り組みとしておこなっているそうだ。

    震災当時の教訓を活かして、設置された防災機能について学んだ。

    ●小名浜港・観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」他 
    小名浜港は、津波により大きな被害を受けた。港周辺の商工業施設や停泊する船舶、岸壁そのものが津波により流失や破壊され、港や観光地として機能を失った。また原子力事故による風評被害も少なくなかった。
    この小名浜港は、常磐共同火力発電所の燃料となる石炭をはじめ、木材、コンテナ貨物、化学工業品、軽工業品などを取扱う東北地方において最大級である。また、海と魚のフードテーマパークである「いわき・ら・ら・ミュウ」、ふくしま海洋科学館「アクアマリンふくしま」は東北最大の観光名所でもある。
    ここでは、港の機能、周辺の商工業施設概要、震災後に設置されたメガソーラ、石炭貯蔵場を車窓から視察。

    さいごに

    福島県は日本の高度経済成長に大きく貢献してきた。常磐炭田(現在の福島県富岡町から茨城県日立市あたり)は、関東近郊へのアクセス面で北海道や九州地方などの炭田より優位にあり重宝された。そして会津地方の水力、浜通地方の火力・原子力による電源開発について述べるまでもなく、首都圏の電力供給と経済発展を支えながら、「生産」と「消費」の双方にメリットをもたらした。しかし、今回の原子力事故により「被災者」と「加害者」の関係に一変した。

    2011年3月11日の東日本大震災および福島第一原子力発電所事故から既に12年と数か月が経過しているが、被災地では避難生活を余儀なく続けられている。一部の地域を除き避難指示は解除されているが、震災当時のまま建物が手つかずの状態で朽ちていく風景を目にする。発電所では処理水の海洋放水が始まったが、廃炉作業の見通しは不透明であり、被災は現在進行形である。
    一方で津波による被災地では防潮堤の建設や高台公営住宅への移転などが整い新しい生活がスタートしている。またメガソーラや水素製造プラントの建設、新しい庁舎の建設、TOKYO2020聖火リレー招致など復興の兆しはわずかであるが見ることができた。
    今回のフィールドスタディにおいて、エネルギーの歴史、エネルギー政策による地域社会への影響、そして今も続く原子力事故による甚大な影響について学ぶことができた。
    私たちは電気の普及によって便利で快適な社会生活を手に入れた。今回の事故から得られた教訓をふまえ、電源地域と消費地の関係があることを忘れてはいけない。今回参加された学生には、福島を知ってもらうことにより、エネルギーや電力について関心を持ってもらえることを期待したい。
    機会があれば、この活動は継続していきたい。
    現地でご対応をいただいたみなさまにお礼を申し上げます。一日も早く平常な生活に戻られることをお祈りいたします。

    以上

    集合写真を撮影。