2018.1.8

レポート:電源のふるさと「ふくしま」を知り、これからの電力需給について考える ~福島ウインターツアー2017~

レポート

▶︎レポーター

高崎 大輔 人間環境学部5期 人間環境学部同窓会 副会長 校友会

年末12月16日〜17日にかけ1泊2日で、今もまだ東日本大震災の影響を受ける福島県いわき市を中心に広野町(2012年3月避難指示解除)、楢葉(ならは)町(2015年9月避難指示解除)、富岡町(今年4月1日一部を除き避難指示解除)、大熊町(帰還困難地域)、双葉町(帰還困難地域)、浪江(なみえ)町(今年3月31日一部を除き避難指示解除)の震災および福島第一原発事故の爪痕やその後の復興の進捗を自分の目で確かめることを主な目的として訪問をした。

参加者は竹澤順子さん(人環2期)とその職場仲間2名による4名であったが、少人数の利点をいかし、「帰還困難地域」から今もまだいわき市内へ避難されるご被災者の自宅へ立ち寄り、震災当日の様子や現在に至るまでの避難生活について生の声を聞くなど通常のツアーではできない体験ができた。

避難指示解除から8カ月経過した浪江町の様子

福島第一原発から約10km〜20kmに位置する浪江町の駅前など中心市街地では、除染や建物の修繕や解体等の作業関係の人影や工事車両は見られるものの、帰還された住民や商店等の地元住民の気配はまったく感じられなかった。唯一JR常磐線「浪江駅」の待合室で列車を待つ乗客一人を目にした。
昨年の同時期(避難指示解除前)、避難指示解除後の4月4日に訪れたときと状況はほとんど変わらないことを肌で感じた。
(写真1.)JR「浪江駅」市街地の様子 土曜の日中にもかかわらず人気はない。

(写真2.)浪江駅周辺の病院は震災当時のまま。

(写真3.)JR常磐線「浪江駅」プラットホーム。

国や自治体等は目に見えるような政策として除染や家屋等建物の修繕および解体から再建に力を注ぎ、住民の帰還を促進してきたものの、想定されるように帰還が進まず効果が出ないことがわかる。映像や紙面等メディアでは避難指示解除(帰還宣言)を機にJR常磐線や主要道路の再開通等を大きく取り上げ、復興の兆しを全国へ発信してきたものの、現実と大きな乖離がある一面を知ることができた。避難指示前の住民を分母、避難解除により帰還された住民を分子にした「帰還率」は約3%程度である。実態でも数字上でも復興したとはまだまだ言えない状況であった。

帰りたくても、帰れない事情が人の数だけある。

浪江町大堀地区に約350年前から伝承され、昭和53年に国の伝統的工芸品の指定を受ける「大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)」の窯元の近況について伺った。
現在、この大堀地区は「帰還困難地域」に指定され、ここで暮らしてきた窯元らは避難生活を余儀なく強いられている。この地区に軒を連ねた25軒の窯元は、現在、県内外への避難により離散。避難生活を続ける者、新しい土地へ移り住む者など様々で、その中で事業を再開した窯元は、福島県内に9軒、県外に2軒。残り14軒はさまざまな事情で再開目途は見えないと伺う。
この25軒の窯元は、「大堀相馬焼」の伝統を受け継ぎ、ブランドとして看板を掲げ、その地域のなかで技術を磨きお互い切磋琢磨し、また資材の共同購入や展示会開催など相互協力関係を築いてきた。今後、浪江町大堀ではない異地で再開した場合、技術や製品は維持できるものの、この暖簾(「ブランド」)を継承し、またどのように発信をしていけばよいのか、といった新たな問題もあると伺う。

(写真4.)大堀相馬焼:器に描き出された「青ひび」、「走り駒」と「二重焼」構造が特徴。

(写真5.)組合事務所は避難先の福島県二本松市で続けられている模様。

現在、国や自治体等は、一日も早く避難指示解除をし、並行して除染、道路や建物の整備、生活用品店の誘致、病院や学校再開などを促し生活基盤を確保させ、避難先から故郷へ帰還させることが最重要課題になっている。
しかし、故郷を離れそれぞれの避難先等で新たな生活基盤が安定しつつある者にとってこの施策は的外れであることがわかる。6年と約9カ月は決して短い時間ではなく一時的な避難とは言い難く、先に述べた窯元のように異地で再開する者や転職・転勤する者、新たに住居を購入する者など既に生活基盤を再構築された者は少なくない。たとえ先祖代々から受継がれた邸宅や生まれ育った思い出の故郷だとしても現在の生活基盤を侵してまで故郷へ戻るのは容易なことではない。一方、雇用就学等にとらわれない世代層は、除染や家屋修繕等の生活基盤が整ったことにより帰還される者もいると伺う。
人および世帯の数だけ生活環境の実態は異なり、大家族から核家族への分散、転職・転勤による職場の変化、こどもの就学、ライフスタイルの変化など時間の経過とともに多様化され元どおりへ還元することは容易でなく、これを一律に帰還させようとする施策に限界があることがわかる。

津波被災の爪痕の残る沿岸部

かつて漁業が盛んであった沿岸部に位置する浪江町請戸(うけど)地区では、先に述べているよう避難指示解除はされているが、道路補修、電気通信、土地改良など生活インフラが整っていない。この状態でどうやって帰還すればいいのか、政策と現場に溝が生じていることがわかる。
放射線により汚染された動産・不動産を除染すること、震災と経年により腐朽した建物を修繕もしくは解体し再建することは帰還を促すうえで第一優先に行わなければならない。その一方で故郷へ戻ることのできない被災者への支援施策も並行して講じる必要性を現地の状況や生の声から感じた。避難解除の当時、復興大臣から“帰還は自己責任・・”といった失言や、避難指示解除を境に「自主避難」と概念を変えられ、避難先の公営住宅からの退去や家賃徴収を求める自治体もあり、(帰還したくても)帰還できない方にとって待遇が冷酷であることがわかる。

(写真6)周辺は震災当時の津波の爪痕がいまだに残る。

(写真7)津波による塩害で樹木が朽ちていることがわかる。

ツアー企画にあたって

この企画は現地のご被災者や受け入れ先の方々のご支援をいただきながら、2015年7月に第1回を開催し、今回で11回を数える。人間環境学部の同窓会員や卒業生、学生とその知人、他大学の学生、先生やその知人、まちづくりやエネルギーにかかわる研究員、旅行会社、起業家、マーシャル諸島の留学生など多くの方に参加していただいた。

2020年東京五輪のサッカー合宿地としてJ-ヴィレジ(広野町・楢葉町)が利用されることや聖火リレーランナーが浜通りの国道6号線を駆けるなど世界へ発信する機会が増え、露出する部分の復興は急加速することが予想される。しかしその一方で政策と現場ニーズとの溝の拡がり、復興の進まない地域、風評被害、帰還できない被災者など露出することの少ない問題は首都圏で暮らす私たちは知ることはほとんどなく、時間の経過とともに風化する恐れを危惧する。その風化の勢いを抑えるため、このツアーを定期的に開催し、これまで見てきた地域の定点観測や生の声を聞くことを継続する必要があると考える。

今後ともご理解およびご支援をよろしくお願いいたします。


(写真8.)2011年4月11日、いわき市内陸部を襲った直下型地震の震源地付近の田人町塩ノ平(たびとまちしおのひら)集落で震災当時の体験談や地上に露出する希少な活断層等の対話をする。

(写真9.)干し柿、梅、煮物など山のごちそうをいただく。

以上